闘茶解説

解説一覧

[闘茶とは] [歴史] [遍歴] [衰退と変貌] [懸け物] [闘茶禁令] [闘茶の始まり] [中国の闘茶]
[茶の栽培の始め] [本膳] [日本の闘茶図] [闘茶道具] [闘茶点前] [闘茶式方] [闘茶札] [登録商標事件]
闘茶体験横濱茶館(R)横浜文化教室


闘茶とは

「闘茶」とは、南北朝時代の茶会から遊戯的形式に至ったもので、茶の味を飲み分ける
茶の遊芸であり、当時、賭博で南北朝時代から室町時代にその流行をみたがわずか100年
程度で表舞台から消えたものである。
なお、「闘茶」の用語は、唐の時代の「闘茶」から後世において用語統一されたものであり、
以下、中国と日本では呼び方とその内容は異なり、それぞれ独自の文化である。
日本における闘茶式はそれなどの遊戯形式を蹈
襲したのではなく、茶を用いた勝負の発想はその原型を中国にみるが、香道組香之
式に凝しらえて案出されたのであって、日本独自のものであり、当時国内でその盛
大なる流行時、庶民まで一時浸透したる結果、これを世間は
茶歌舞技(ちゃかぶく)と呼んだ程であった。
広義的意味で『茶でもって競う勝負する遊ぶ』は「闘茶」と考えて良い。
闘茶を表現する単語として次があり、全て闘茶を示す。

闘茶・鬪茶・斗茶・茶歌舞伎・茶カブキ・茶寄合・茶香服・闘茶式・闘茶之会・銘闘・茗戦・回茶・七所勝負
順事茶・巡立茶(巡茶)・競茶・茶合・林間茶湯・茶博奕・ポンピ・寄せ茶・お茶講・茶王戦・茶試・Tea Fight


闘茶の歴史

闘茶の始まりは、定かではないが、次の歴史を辿った様である。
鎌倉時代初期に栄西から明恵上人に伝わった茶を京都の栂尾(とがのお)に植えた
(高山寺の明恵上人が栽植したといわれる。)これより茶の栽培がはじまる。
鎌倉後期には茶園の普及は、地方に拡大し、茶の名産地が生まれ、これにより産地
を異なる茶の比較が生じた。
南北朝時代には、闘茶之会(「喫茶往来」に当時の茶会が記録されている。※詳細
は後記)が興される様になる。
闘茶の前期は、茶をこの京都栂尾産を「本茶」とし、その他の産地のお茶を「非茶」
と言って茶会にて本非(ポンピ)の沙汰、飲み比べをしたもので、本茶と非茶複数
により競じるものである。その前は、唐渡来の「本番茶」と「内地茶」の記録も残
っている。

闘茶の遍歴

闘茶の前身は、水の産地を当てるもの、茶碗の蓋をとって茶柱の有無を賭ける単純
なもの、酒宴の席や蒸し風呂で木にぶる下げた賞品の奪い合いなどの闘水・茶博
奕・林間茶湯である。
時代とともに闘茶で使用する茶葉(使用する水の違い、摘む時期違いのもある)三
種のものから種類が増えたものや遊技法を凝らした「闘茶」が生まれていった。そ
の遊戯性により茶会(闘茶)の式次が定まっていき興なわれたのが南北朝時代、
この時代は公家・僧侶階級中心で闘茶之会は1日を要する雅な茶会(競いがある場
合賭博様相は存在する。)であった、百服茶などはこの時代生まれている。
その賭博性から一般武士・商人にも広がりを見て催され、式(会)の簡略と煎茶・
道具の普及もあり闘茶之会が流行した室町時代(この時が最高期)。庶民の間でも
「賭け茶屋」が多くでき「ポンピ(本非を意味した当時の賭博用語)」とも呼ばれ
ていた。

闘茶の衰退と変貌

賭博の広まりとともに人心の乱れから、ついに足利幕府は建武3年(1336)禁令を
交付するまでに至り、戦国時代に何度も公布された種々の賭博禁止令と共に公の闘
茶之会は存在無く、茶の遊芸は衰退していった(庶民には裏に残る事になる。)。
衰退とは逆にして茶道、別なルーツにより煎茶道の道(どう)の精神文化が生まれ
ることになる。闘茶はそれを源にし、江戸期に茶道の千家七事式の一つ(最初に「茶
カブキ」が制定された。名の由来は茶歌舞伎から)として形式と文化を大きく変化
して残っている。
時代は移り、煎茶が大流行した幕末から明治初期にかけて、闘茶道具一式が多くつ
くられ、上代時期の闘茶式を模写し、茶を煎茶として、一時復活をした。これが今
日にも伝承される闘茶式である。

懸け物

・太平記第三十三巻 
 ※異国本朝ノ重宝ヲ集メ、
 ※茶ノ懸物ニ百物、百ノ外ニまた前引ノ置物ヲシケルニ、
  初度ノ頭人ハ、奥染物各百充六十三人ガ前ニ積ム。
 ※第二ノ頭人ハ色々小紬十重ヅツ置ク
 ※第三ノ頭人ハ沈ノホタ両度ヅツニ、麝香ノ臍三ヅツ副テ置く。
 ※第四ノ頭人ハ只今威シ立ヌル鎧一縮ニ、海花懸タル白太刀・金作ノ刀ニ
  各虎皮ノ烽袋ヲサゲテ、一様ニコソ引キタリケレ。
 ※以後、頭人廿余人、我レ人ニ増ラムト、様ヲ替、数ヲ副テ山ノ如クニ積重ヌ。
・太平記第三十六巻
 ※七百種ノ懸物ヲ積ミテ
・太平記第三十九巻
 ※懸物如山積上タリ

・「師守記」「祇園執行日記」
 ※香炉・香筥・硯・紙・扇子・陶磁器・包丁・火箸・蝋燭、足袋、銭
 ※其ノ費、幾千万ゾ 

・「看聞御記」
舟一艘、銀貨、茶碗、呉器、壷、弓、箭(矢)、金仙花、鵝目(穴あき銭)


闘茶禁令

建武式目條々

 全部で十七條からなり、建武三年(1336年)11月7日成った。
なので、建武三年に禁令が公布されたという解説は、
実態は足利幕府の憲法(に該当する基本法)が公布され、その中に闘茶に
言及があったである。ただ、即効性は無く、
足利将軍自ら含め厳守するものが少なし、とも当時の状況がある。
闘茶はこれももって無くなる事は無く、最盛期を迎えるにいたる。

なお、「闘茶」という単語は当時はなく、
「博弈」「茶寄合」で示し、「群飲佚遊を制せらる可き事」の一文で禁止を示す。

原文;


闘茶のはじまり

日本

闘茶は、「方法や会の構成から日本独特の遊びと考えて良い。
鎌倉末期に至り、各地で製茶業が展開し、それに伴って茶の品質に
差が生じた。(中略)。本非の味を飲み分けるゲームが始まった。
その記録は、
『光厳天皇宸記』正慶元年(1332)6月5日条の「飲茶勝負」が初見
で、廷臣たちが茶の同異を知る遊びであったことがわかる。
その数年前に無礼講の「飲茶会」があったことが『花園院宸記』
元享四年(1324)10月朔日条にあり、おそらくこれも闘茶会で
あったろう。」

『国史大辞典』からの引用


中国の闘茶

茶葉の品質、茶藝・分茶を競う
茶の質(茶葉の良し悪し)・味。水。茶を淹れる茶藝技術。
分茶(点じた時の茶碗の中の様々な模様の図柄の美しさ
と変化)等を競う真剣勝負。

中国では唐の時代に闘茶が始まり、宋の時代に(茶文化が盛んになり)盛んになり、
皇帝献上茶を得るために茗闘。茶藝(淹れ技術)と分茶(模様と変化)が盛んになった。
闘茶は唐ではこれを「銘闘」「茗戦」ともいい、盛んに文人・墨客の間に遊ばれ、
唐庚の『闘茶之記』、茫希文の『闘茶歌』、趙孟の『闘茶図』などがあって、その
流行を想像するに難しくない。
中国では単純な勝負から細分化・専門化されていった
さらに様式美、精神性なども競い合うものである。


茶の栽培の始め

栄西禅師(永治元年4月20日(1141年5月27日)-建保3年6月5日(1215年7月2日))
が茶の木を「高山 宇治 黄檗」埋めた。

明恵上人(承安3年1月8日-寛喜4年1月19日(1173年2月21日 - 1232年2月11日))
が「栂尾 宇治 仁和寺 醍醐」で栽培を開始した。

東福寺十五世の虎関師錬(1278~1346)室町初期の作「異制庭訓往来」より、
「栂尾[本茶該当] 仁和寺・醍醐・宇治・葉室・般若寺・神尾寺[非茶 該当]
 大和室尾(室生)・伊賀八鳥(服部)・伊勢河居・駿河清見・武蔵河越 [もあった]」
なお、後年「栂尾」と「宇治」が本茶扱いと成る。


闘茶道具

主に唐物と呼ばれる、道具類。茶入(大海や大振りのものが好んで使われたと思われる。)。
主な所で茶碗は天目台の上に天目茶碗。茶筅は、「茶径」に記載されている坐副師。
その他、「茶径」が記載されている道具類が使われたと思われる。


闘茶点前

闘茶初期と後期(以上特権階級)と庶民ホンピでは、方法が異なるが次の様に変化していったと思われウ。

初期: 五ツ頭の式方 ※今も存在する

後期: 真台子にようる式方
 真ノ台子点前の原型の可能性ある(憶測です。)
 黒真塗の台子その上に、唐物台天目袋付茶碗、唐物長盆を乗せ袋付棗型10個(試しは3種で茶入型、長盆事入れ替え)

江戸後期から明治期:
 別なページにて解説する。本ページは、南北朝・室町時代の闘茶に関して説明をする。


闘茶図

中国の闘茶図は前述した通りであるが、日本でそれらしき絵が次がある。

「源氏物語図屏風 伝土佐光芳筆 江戸時代 石山寺所蔵」
に11人の公家が釜を囲み茶壷二つと闘茶札と湯斗が描かれている遊戯図がある。


闘茶式方

 初期から現代まで時代と共に変化し、また多様化(及びローカルルールもあり。)している。

 前期   五ツ頭 本非二服、本非十服
     貴人の遊戯賭博乱痴気騒・本茶の優位より変化・道具自慢 
 最盛期  書院の茶、有試四種十服・百種茶・他
    ※儀式での点前、唐代での茶之道具
    ※式法の確立、贅沢な茶
 江戸・明治 煎茶使用
    ※抹茶から煎茶へ移行

 ここでは、最盛期の闘茶の流れを説明する。
 佐々木道誉によるもので、太平記にその記載がある。
 書院茶室をつくる(これが現代の茶室の原型である。)
  第1の部屋
    最初の部屋に唐物の飾りや懸け物の飾りですが、
    CGや絵で示す事をお勧め。道具復元を豪華に並べるのは
    難儀かと心配
  第2の部屋 宴会
    本膳(後述)と酒と踊りと寳樂
  第3の部屋 闘茶会
     書院の茶時代の点前手順(一部記録が現存している。)


本膳

室町時代に形式が成立したもの
現在の、茶懐石(一汁三菜中心)、会席(料亭などでの料理)の原型

 式三献※酒礼 次に 七五三膳※饗膳 次に 酒宴 の3部構成
  式三献: 引渡膳、雑煮膳、吸物膳 
  七五三膳(7つの膳、同膳に盛られている菜が7・5・3となっている。)

 道誉の闘茶会(「太平記」より)は、
 十番膳まであり、百種もの点心からなる、とあります
 この十番膳が上記の3+7膳。

 詳細は、「懐石の研究」「日本料理文化史」に詳しい


闘茶札


闘茶登録商標事件

詳細 「闘茶登録商標無効審判事件


Copyright(C)2009 横濱茶館®横浜文化教室.
[First Upload 2009.5/12, Last Update 2009.5/13]
NHKタイムスクープハンター」沸騰!闘茶バブル 放映日に合わせ本ページを公開した。本番組 取材協力させていただいた。

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